"正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。"
村上春樹,『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋),P.94
"「――現実なんてものはどんな風にも解釈可能なんだよね。
だから極端な言い方をすれば、こっちがどの現実を選ぼうが、相手の心には同じ結果しかもたらさないっていうことだってありうるんだよね」
まったく、すべてを“解釈”の問題に還元してしまうところがじつに二階堂らしい考え方だった。
二階堂の髭とその下の赤い唇が動くのを見ながら僕は黙って聞いていた。
「――っていうか、ほとんどそういうことなんだよね。
ゲイのおれたちだって、ストレートのあんたたちだって、子どもの頃におんなじような経験してんのに、おれたちの方は『あのときのアレが原因だった』って考えて、あんたたちの方はすっかり忘れてるってことじゃない。
だから子どもの頃に何があったって、本当はそんなもの少しも原因じゃなくて、大人になって自分がこうなっているっていうことの原因がみんなほしくて、『あのときのアレだった』『あのときアイツがあんなことしたからだ』って、言ってるだけなんだから、原因なんかいくら探したってしょうがないんだよね。
そんなこと言ってたら、いまここ[「いまここ」に傍点]にいるおれは原因がいくつもいくつも重なり合ったことの産物だって、それだけの存在になっちゃうし、過去に起こったことからいつまでたっても自由になれない。じゃあ、いまここ[「いまここ」に傍点]にいるおれはいったい何なのよ。
そんなの全然逆で、確かなのはただここ[「ここ」に傍点]におれがいるっていうことだけで、問題は結局いま[「いま」に傍点]のあんたであり、おれであり、ナッちゃんであり、つぼみちゃんなんだよね。
何か原因を探し出して、それでこれから知り合う人間とうまくいくとでも言うのなら、原因ぐらい探してやるよ。見つからないって言うやつがいたらおれが作ってやるよ。そんなこと簡単だよ。
でもそういうことじゃないんだもん。原因なんか探せば探すほどいま[「いま」に傍点]の自分がこうなのはしょうがない、どうしようもない、もう絶対変えられないっていう言い訳が出てくるだけだもん。
そうじゃなくて、いかにしていまここ[「いまここ」に傍点]にいるあんたやおれを受け入れるか、っていうことしかないんだもん」"
保坂和志,『季節の記憶』(中公文庫),P.325-326
"「(…)
考えてみるとぼくは昔から『あそこ』的な人間だった。つまり、今『ここ』で自分がやっていることはすべて仮のものであって、いずれ自分は『ここ』ではないところへ行って、そこで本当の生活をはじめるだろう、心の底ではいつもそう思っていた。彼岸を仮定することによって此岸の生活を真剣に見ることを回避してきた。つまり…」"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.172
"「人を不幸にする環境はたしかに存在するが、人を幸福にする環境は存在しない」"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.164
"「モーゼかテーセウスだ」とマイロンは言った。
「それは少しちがうよ」と彼は言った。「モーゼやテーセウスだけが自分の生い立ちの特許を持っているわけじゃあるまいし、ここの人たちだって木の鉢で流される赤ん坊や、流浪の子の劇的な帰還を語る権利を持っている。人にはあらゆる物語を語る権利がある。あなたにとってそれが目新しくないのはここの人たちの責任じゃないと思うけど」
「いや、われわれはこれをモーゼとテーセウスとしてしか理解出来ないのさ」
「どうして?」と彼はたずねた。
「語り手も駄目なら聞き手も駄目だということさ。われわれにはどちらの資格もない。この島の人間でないわれわれには、この話を正しく聞き取るだけの教養がないんだ。それにどうせ英語では何も伝わらない」
そうかもしれないと思う。しかし、彼はそれ以上不機嫌なマイロンを相手にせず、自分の中にこもってこの話のことを考えた。いったいどのような席で誰がこの物語を語り、誰が聞いたのか。"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.158-159
"「誇りに思うかね?」
彼は考えた。
「どうだろう。誇りというのは他の人に対して自分を提示する感情だ。ぼくは自分のやったことをうまく人に伝える自身がない」"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.109-110
"「七日目の夜、ぼくは船に後ろからぶつかってくる大波の写真を撮ろうと後甲板に出ていて、波にさらわれ、海に落ちた。誰もがぼくの落水に気づかなかった。ぼくはそのまま船とははなればなれになり、夜も昼も漂いつづけ、半死半生であの島へ漂着した」
言葉にするとこんなに簡単になってしまう。こんなに短くなってしまう。彼が書いた記事も全部そうだったのかもしれない。条例の制定や工場の誘致や一家心中や井戸に落ちた子供の背後にある厖大な現実の量。十行の記事。"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.107
" ぼくは落着いている。島を出てゆくのはまだ先の話だ。ここで食物を集め、食べ、身辺をととのえ、家を維持し、少なからぬ時間をぼんやりと過し、時にはボートで礁湖のずっと遠くまで行くといった小さな冒険をする。ここでの生活には時計も暦もない。いつまででも続けることができる。これを書くという仕事だけが時とかかわっている。気の長い時限爆弾のように、書かれた文字の数をかぞえている。
その文字の数がある量に達したら、ぼくは島を出る。ぼくはそう決め、一滴ずつ文字を蓄えようとしている。島を出る手段はぼくの手中にあり、その気になれば数時間後には別の場所、クワジェリンの空港かホテルか、あるいは早々とボーイングの機内にいるだろうが、ほかの人がたくさん住んでいてぼくもかつて属していた文明の世界の中へ再び入ってゆくのは、この島を出るよりよほどむずかしいことだ。
戻れば、ぼくは説明を強いられる。戦線を放棄した釈明を求められる。知人の一人一人を思い出して、その相手に自分の身に起こったことを一所懸命に説明している姿を想像するだけで、ぼくはひるんでしまう。話せばみんな同情の耳で聞いてくれるだろう。そして、何ひとつ理解しないだろう。あるいは、裁判が開かれる。鋭い質問が四方八方からつぎつぎに飛んでくる。ぼくは強い光を浴びて一人立ち、必死で応答し、矛盾をつかれ、たじろぎ、口ごもり、立ちすくむだろう。ぼくの悪夢。
ここへ来て、ぼくは変わった。何が起ったのだろう。ぼくの中に積んであったもの、三十年の間に蓄積されたものの多くは、あの大波で崩され、押し流されて、なくなってしまった。この一種のすがすがしさ、依存していたはずの社会や制度から強引にひきはなされてみたら、そんなものなしにもやっていけることがわかったという、奇妙な自身。三十年分の過去と縁を切って別の自分になってしまう快感。変身の解放感。"
池澤夏樹,『夏の朝の成層圏』(中公文庫),P.10-11
"(…)僕は売春ということをよいことだとは思わない。でも現に売春をして生計を立てている女性の人権は守られなければならないと思っている。売春は違法だけれど、売春婦の人権は尊重されなければならない。そう言うと、みんな怒り出すんです。どっちかにしろ、と。売春は違法なんだから、売春婦に労働者の権利は認めないという頭の固い法律家が一方におり、売春するのは個人の権利であり、父権制秩序に対する異議申し立てであるから、売春を合法化するべきだという社会学者がいる。どっちの言うこともおかしいと僕は思います。私の提案は、「もう売春婦になっている人」についてはその人権を守り、「これから売春婦になろうという人」には「やめた方がいいよ」と忠告するということなんです。ごく常識的な考えだと思うんですけれどね。"
内田樹, 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』, (講談社文庫), p.246
" 知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。
ですから、それを逆にすると、「無知」の定義も得られます。
無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。
僕が今日ずっと申し上げているのはこのことです。学びからの逃走、労働からの逃走とはおのれの無知に固着する欲望であるということです。"
内田樹, 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』, (講談社文庫), p.182
" たしかに、自己決定することはそれ自体「よいこと」である、という思想が社会の一部においては支配的なイデオロギーとして定着しつつある。これは事実です。
しかし、その一方で、日本人は骨の髄まで集団志向ですから、「自己決定することそれ自体がよいことである」という思想を「みんな」が共有することが声高に求められている。
どう考えても、ここには「ねじれ」があります。
「自己決定」というのは、「他の人が何と言おうと、私は私の決めた通りのことをやる」ということですけれど、今日本で語られている自己決定論というのは、「『他の人が何と言おうと、私は私の決めた通りのことをやる』というのを『みんなのルール』にしませんか?」というものです。
これ、変ですよね?"
内田樹, 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』, (講談社文庫), p.142-143
"「ほんとうの私」というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通じて、私が「余人を以て代え難い」機能を果たしたあとになって、事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです。私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる。
ですから、「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとるはずです。"
内田樹, 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』, (講談社文庫), p.85-86
" 子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生のきわめて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。"
内田樹, 『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』, (講談社文庫), p.63
" いつぞや、ある合評会の席上で、一篇のバラの詩が問題になったことがあった。私より年長の詩人F氏は、その詩のつまらなさに言及して、「この詩の中のバラよりは、うちの庭のバラの方がまだましだ」というような意味のことをいわれたのであった。私は咄嗟に、「どんな詩の中のバラだって、本当のバラにははるかに及ばない」と反駁し、F氏はそれに対して、「それでは詩を書く意味がないではないか」という風にいわれたのだったが、この時私は図らずも、自分とF氏との間の根本的な詩観の相違に気づいたように思った。詩の中のバラは、私にとっては、あくまで言葉であるにすぎず、それ故、それは本当のバラとは似ても似つかない。それは、匂いも、色も、重さももっていない。それはただ、せいぜい私たちの心に訴えるものにすぎない。だが、本当のバラは、この地上に、私たちの目の前に、鼻の先に、唇の触れる所に咲いているのである。私たちは、それに触れ、その色を見、その花びらの重さをはかり、その匂いをかぎ、更に、それを踏みにじることさえ出来る。私たちは心だけでなく、自らの感官のすべて、肉体のすべて、存在のすべてをあげて、そのバラとむすばれることが出来る。そのバラは本物であり、詩の中のバラは、もし本当のバラと比較するのなら、にせ物であると私は考える。"
谷川俊太郎, 私にとって必要な逸脱,『二十億光年の孤独』,(集英社文庫),P.143-144,(「詩学」一九五六年一二月)
" 私も、自分自身を生きのびさせるために、言葉を探す。私には、その言葉は、詩でなくともいい。それが呪文であれ、散文であれ、罵詈雑言であれ、掛声であれ、時には沈黙であってもいい。もし遂に言葉に絶望せざるを得ないなら、私はデッサンの勉強を始めるだろう。念のためにいうが、私は決してけちな自己表現のために、言葉を探すのではない。人々との唯一のつながりの途として言葉を探すのである。"
谷川俊太郎, 私にとって必要な逸脱,『二十億光年の孤独』,(集英社文庫),P.142,(「詩学」一九五六年一二月)